以下は、謎の集団「フクモ陶器研究」研究会(以下フクモ研研)メンバーによるこじらせ考察である。書き手はフクモ陶器に隠されたメッセージを勝手に読み解こうとしているが、着地点を見失って現在筆者自身も行方不明。以下は、研究室のパソコンに残されていた未完のテキストである。内容の真偽は読者諸君の判断にまかせるしかないので、フクモ陶器公式研究書『無用的芸術 フクモ陶器』を片手に読み進めてほしい。
フクモ陶器こじらせ考察 その2
ミクロコスモス・レジデンス
—内臓球儀—

編注◇その1「伏羲女媧鋏」で「易経」とフクモ陶器の親和性というとっぴな考察をしたフクモ研研は、さらに「内臓球儀」に「道教の養生」を結びつけ不老不死のシンボルだと超理論を展開する。
“大陸と思いきや内臓”というキャッチフレーズのついた地球儀型の「内臓球儀」である。地球と内臓。いっけん突飛に見えるが、作品のメッセージを読み込むほどにこれが理にかなった組み合わせであることがわかる。
そもそも内臓とは何だろう。古代中国の体内観を紐解いてみよう。
道教はもともと紀元前からある中国の民間信仰をもと宗教として確立した。道教の目的は「永遠の生」であるが、そこから不死の研究としてさまざまな実践方法が生み出された。
そのなかに「存思」という養生法がある。地上のあらゆる場所に神様がいるように、体の中にも神々が棲んでいる。その体内神(あるいは身神)と呼ばれる神々をできるだけ具体的に想像することで心身を健やかにする一種のイメトレである。体の各部位すべては神である。ちなみに臓器の神は、それぞれ宮殿(=担当臓器)に棲み、外から入った悪い気や体内で発生したエラーを除去しながら、生命に必須の“気”や“魂”を体内に留めるという任務を負って日々働きつづけている。そうして定期的に宿主どんな生活をしているか天に報告するのである(ちなみに悪いことをすると寿命が減らさたり、それに見合った不幸がふりかかる)。まさに体内は、神々というVIPを擁したひとつの集合住宅なのである。そうして管理人である宿主が建物のメンテナンスを怠る(=不摂生をする)と、住環境が悪くなる。居心地が悪いと神様は出ていってしまえば YOU DIEである。
神々が体内にいることは生命の維持に必要なのである。(中略)すなわち、神々の中のある神、固定しておこうという神、を見つめ、思考をその神に集中しておくのである。それは単に空想的に表象するのではない。神を想像するのではなく、神がその住む体内の場所で、衣装をつけ、特有のもちものをとり、普通の姿勢で、とりまきとともにいるのを、実際に見るのである。
『道教』アンリ・マスペロ(平凡社ライブラリー)pp.53-54

▲体内神 WIKIPEDIA “Body god”
「内臓」とは神様を内にいる蔵(=臓)しているという意味なのだ。自分の中にえらい神々が暮らす高級集合住宅があると思うと、自分の体が貴く感じ、神様の居心地がよいように日々のメンテナンスにも精が出るというものである。道教の経典では、それぞれの体内神の姿やサイズ、衣服の色、お付きの者など、それぞれキャラクター設定があって、神様が棲む宮殿の大きさや間取りも決まっている(ただし経典によって設定は異なる)。まず名前からかっこいい。
『黄庭経』では五臓六腑を中心に、宮殿に見立てられた各臓器の形や構造、そこに棲まう神々の名や姿といった、イメージされた体内風景が蜿々と韻文で語られる。(中略)たとえば『黄庭内景経』心神章に登場する体内神は次のように記述されている。ここでは神々のディテールは描かれておらず、ただ名と字(別名)が記されているだけであるが、その名字がまさしく「名は体を表わす」であって、この場合はイメージというより神々の名号の読誦が神々の現前と加護をもたらすと考えられていたのであろう。
心神[の名]は丹元 字は守霊 肺神は皓華 字は虛成、
肝神は龍煙 字は含明、腎神は玄冥 字は育嬰、
脾神は常在 字は魂停、胆神は龍曜 字は威明。
『不老不死という欲望 中国人の夢と欲望』三浦國雄(人文書院)p.79より






▲体内神(黄庭内景五藏六府)
私は、フクモ陶器研究研究において、フクモ陶器が「脳」を扱わないことから東洋思想における“脳”を調べているうちにこの「体内神」にたどりついた。古代中国ではものを考えたり感情が生まれる臓器は“心(しん)”だと考えてられいたため、脳は内臓とは別の機能をもっていたという。
中医学で、体の中に「丹田」と呼ばれる重要なポイントがある。丹田は「上・中・下」と3つあり、よく知られているのはへその下にある「下丹田」である。中丹田は胸部、上丹田は頭部にある。頭部にもさまざまな神様がいて、それらを総帥するのが脳神“泥丸”だ。臓器の神々の名前と同様に、この頭部の神さまたちの名前も、字を見るだけで彼らの姿や性質がイメージできて面白い。
泥丸の百節みな神あり、髪神[の名]は蒼花 字は太元、
脳神は精根 字は泥丸、眼神は明上 字は英玄、
鼻神は玉壟 字は霊堅、耳神は空閑 字は幽田
舌神は通命 字は正倫、歯神は崿鋒 字は羅千、
一面の神は泥丸を宗とし、泥丸の九真(九人の真人)みな房あり。
(中略)この道教経典では、目や鼻や耳は五臓とつながっているのではなく「一面の神は泥丸(脳神)を宗とす(宗主として仰ぐ)」と云われている通り、脳神の支配下に入っていて頭部の中で自立している。体内神という観点から云えば、頭部は五臓と同等かそれ以上の地位を与えられているのである。『不老不死という欲望 中国人の夢と欲望』三浦國雄(人文書院)p.80よりさて、これを踏まえて「内臓球儀」に戻る。その土台を見ると、擬人化された内臓たちが何やら楽しげに並んでいる。みずみずしい葉っぱをはやした肝たち。裏側には、ピーナッツの殻のようなふたつの腎が小さな膀胱と手を繋いている。この泌尿器グループは、肝たちにくらべると少し幼く見える。経典によっては内臓の神は童子として表されるらしい。
『黄庭経』は、体内に棲まう神々と交信することによって長生が得られると解く道典であるが、むろんここでも主旋律は還童のテーマである。(略)そして奇異なことに、この『黄庭経』では内臓の神々がすべて童子として表象されている。
『不老不死という欲望 中国人の夢と欲望』三浦國雄(人文書院)p.58より *太字は筆者
先に述べたように、道教は「永遠の生」を求めた宗教であるという。それは来世や輪廻などの魂の永遠ではなく、「物質的な肉体の不死」である。それを極めたのが仙人で、イメージされる仙人は老人の姿の場合が多いが、不老不死をつきつめると「若返り」=子どもへの還元にもつながるのだ。
地球儀を見ながら実際には見ることができない地球を見て、それぞれの国に想いを馳せるように、球儀型の内臓球儀はその臓器に想いを馳せる。そして球儀を見ていた視線はいつのまにか自らの内側に注がれている。そこに描かれている彩色された美しい臓器の大陸と楽しげな臓器たちの姿を、自らの内側に見るのである。
われわれの身体には神々が一ぱいおり、そしてこの神々は外界の神々と同じなのである。このことは人間の身体が世界と同じであり、他の形をとった世界そのもの、つまり大宇宙(マクロコスモス)に対する小宇宙(ミクロコスモス)だということからくる一つの帰結である。
『道教』アンリ・マスペロ(平凡社ライブラリー)p.48より
そして、地球儀の外側は宇宙であると同様に、内臓球儀の外側は「身体」である。身体は地球にあり、地球は宇宙にあることを思い当たる。鑑賞者は内臓という内側を見ながら、いつのまにか宇宙の中にいる。入れ子もフクモ陶器によく出てくるモチーフである。それに気がついた時には、すでに我々はフクモ陶器の秘術の中にはまっているのだろう。
(その3へつづく)



